お茶染めのはじまり。   

「出会い」が人生を豊かにする。 

 Philosophy of Maison TEAxtile

今から10年も前の話・・。

 

 

 当時よくお世話になっていた先輩が、軽トラックに大きな茶色い袋を積んで私の工房までやってきた。

 

「お前 染物やってるし、これを煮れば色が出るから染められるだろ。」

「・・あぁ、そうですね。草木染めでは昔から染料として使われてますから染まると思いますよ・・。ありがとうございます。」

 

(突然の事だし・・置き場所も取るし正直困ったな・・。)

先輩を見送ると取り敢えず、その大きな茶色い袋を染料の倉庫に放り込み、途中だった作業に戻った。

 

 

そして10年後の現在、私はその大きな茶色い袋を求めて方々を走り回っている。

その袋の中身こそが、お茶である。

お茶と言っても100gいくらで販売されているような商品ではないが、自家消費なら問題ない品質のものだ。

 

しかし、商品にはならない為「染料」として新たに付加価値を付けることで新しい産業になるのではないか。

ここは静岡お茶処、いったいどれだけの「染料」が眠っているのだろう。

 

そう思った瞬間から私の胸の高鳴りは止まないままである・・。

 

 

 

静岡の伝統工芸「駿河和染」の技術で染めています。

駿河和染について

-するがわぞめ-

 

静岡市には「麻機」「賤機」「服織」など布に関した地名が多く残っています。今川時代には木綿が盛んに作られ、八幡織木綿、中島紬などの織物の名もみられ、織物とならんで染色業も発達し、紺屋町ができ、型染や手描きの紋染が行われ、近郊農村では染料の藍の栽培が盛んに行われました。
江戸時代には、武家のために幟 ( のぼり) 、旗差物 (はたさしもの) 、町家のためにのれん、伴天、作業衣など、また祝儀物として筒描きによる定紋入り風呂敷などが染められ、旧安倍川の川筋に沿って多くの紺屋が繁盛したといわれています。
しかし、明治になり、交通の発達から他産地からの進出、機械染色の出現など近代化の波のなかで、紺屋の仕事も減少しました。
再興の機を与えたのは大正後期に起こった民芸運動で、直接には芹沢銈介氏 ( 当時県工業試験場技師、人間国宝 ) が静岡やその他の地域に残る染色技術と芸術性の発掘に努力し、その成果が実って、新たな静岡における和染興隆の端著となりました。

 

※ 静岡県郷土工芸品振興会「しずおかの郷土工芸品」より。

 

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